傍に居るなら、どうか返事を


「貴方はまた…。」
 叱咤の声と共に、成歩堂はゆるく首を上げた。
ソファーの横に立つ霧人は、視線が合うとすぐに大きく溜息を吐き、眼鏡を軽く抑えたまま左右に頭を振った。
 彼が普段使っている机の上には、旅行用の鞄と数冊の本。そして、身の回りの日用品が少々置いてあった。愛用しているマニキュアの瓶や香水の瓶が列挙されているの目にした成歩堂は嘲笑の口元を秘やかに隠した。
 成歩堂にとって、どうも化粧品の類は女性のものという感覚が身についていて、似合っているのは間違いないものの、少々奇妙な気分になる。
 それを見てとったのか、霧人の機嫌が益々悪いものになったようだった。
「汚さないで下さいと、何度お願いすればわかるのですか?」
「汚してない。まだ、汚してはいないだろう?」
 テーブルの上にはお決まりの葡萄ジュース。成歩堂が寝転がっているソファーの周辺には、来客用の雑誌と法廷記録らしいファイルが無造作に置かれている。指先で摘んでパラパラと捲くる仕草は何処か緩慢で、人を喰ったもの。
 罵声の類を口にしようとして、霧人はぐっとそれを飲み込んだ。
この男に忠告しようとも、軽くかわされてしまう。それでも、憤った気分を回復すべく、机に残されていた帰宅した事務員が入れてくれた紅茶を一口含む。
 柔らかな香りが、何とか苛立ちを抑えてくれた。
「いい加減帰りなさい。娘さんは一人なのではないんですか?」
「みぬきはお泊まり会だそうだ。」
 眉間を少し寄せた成歩堂に、おやと首を傾げた。
「貴方も不機嫌なようですね?」
「…みぬきは外泊。君もいない。ひとりぼっちで寂しい夜をどうやって過ごそうかと考えていれば、心細さに涙が出てきそうだ。」
「実に鬱陶しいですね、それは。」
 成歩堂以上に眉間に皺を寄せた霧人は、何も聞かなかった事として出立の準備に戻る。計算されたように隙間無く荷物をつめていけば、愛用の香水が残る。量は無い。瓶の底に僅かに残っている程度。
 慎重に指で摘む。乱暴に扱ってしまうと、直ぐに壊れてしまいそうな細工の美しい瓶も、この香水を気に入っている理由のひとつ。そして、弟も香水をつけてはいるが、自分と全く違う香りだという事実も霧人は好ましいと思う。
 蓋を開けて、瓶を傾ける。霧人の中にある(弁護士の証であるバッジを象徴するそれが)大きく振れた。

「牙琉」

 引き留めるつもりもないだろうに、甘えた声で背中から抱き付いた成歩堂に、霧人は指でもって支えていた瓶を取り落とした。
 あっけなく手から零れ落ちた硝子は、床の上で粉々に散った。

「急に何をするんですか、成歩堂!」
「あ〜悪い。」
 如何にも、悪びれない声が耳元で聞こえた。
香水とはそもそも揮発性の高い液体だ。絨毯の中へ染み込むよりも早く、空気中に四散させていく。成歩堂が眉間に皺を寄せる頃には、事務所はその香りで満たされていた。
 う。と言いながら鼻を摘むと、成歩堂は抱き付いていた霧人から腕を離して数歩後ずさった。片手で鼻を摘み、もう片方の手で自分の回りの香りを何処かへ追いやりたいと手をバタ突かせる。
「君についてる時はそうでもないが、こうしてみると強烈な臭いだなぁ」
 本当に嫌そうに顔を歪めるので、霧人は口端を持ち上げる。溜飲が下がるとはこういう時に使う言葉なのだろう。
「何を言ってるんですか、貴女が壊して於いてなんて言い草です。香水とはそもそも心地よい香りを楽しむもので、こんなに大量に消費するものではないのですよ。
 気に入っていたのに、貴方という人は…。」
 そう言いながら、霧人はもう一度机の上の紅茶に手を伸ばした。優雅に取手を掴み唇にあてた途端、眉間に皺を寄せたのは霧人の方だった。
「飲んでみなさい、成歩堂!」
 綺麗な髪はそのままだったが、まるで怒髪天をつく勢いでティーカップが成歩堂の鼻先に突き付けられる。
「センセ…?」
「いいから飲みなさい!」
 ギリと奥歯を噛み締めたような音がして、相当に苛立っている霧人に気圧されて成歩堂は、彼がまだ掴んだままのそれに上目づかいで様子を伺いながら口をつける。
 舌にピリとくる嫌な味が口腔に流れ込んで来た。
(何これ?)と、成歩堂が尋ねる前に、カップは傾斜角を深めて液体を全て口の中に流し込んだ。流石の量に、盛大に噎せかえった成歩堂を見下ろし、霧人はフンと馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
 口から零れた液体をパーカーの袖で拭きながら、酷いなぁと告げる成歩堂に霧人の怒りは治まらない様子だった。
「折角の紅茶まで飲めなくなったではありませんか!? 拙かったですか? 自業自得です!」
 零れた香水が中に入ったのだと主張して、霧人はカップを粗々しくテーブルに置く。それでも、成歩堂に飲ませた事が憂さ晴らしにはなったのだろう、大きく息を吐くと、若干の冷静さは戻ってきたようだった。
「私としたことが。貴方なんかに構っていては、危うく新幹線に乗り損ねてしまうとこでした。私が帰ってくる前にきっちりと片付けをしておいて下さい。」
 そう告げるともう成歩堂に見向きもせずに、そそくさと鞄を纏めて上着を掴む。そして、思い出したように机の引き出しを開け、古書の品揃えでは有名な書店の名が印刷された紙袋を取り出した。
 給湯室から雑巾を探し出した成歩堂がヒョイと覗き込んでくれば、しっしっと犬でも追うように手を振る。
「なんだい、それ?」
「貴方には関係ないものです。勝手に触らないで下さいね。」
 きつい命じて、霧人はそのまま扉へ向かう。雑巾を手を振る男を振り返り常なる言葉を言い置く。
「居たければ居てもいいですが、汚さないで下さいね。もしも汚したら、きっちりと綺麗にしておいて下さい。」


 
 異変を異変だと気付いたのは、それから随分と時間が経った後の事だった。
霧人がいなくなった後に冷蔵庫を漁り、そこらにある資料や冊子を手にとってソファーで寝そべっていると、どうも暑い。
 暖房を効かせ過ぎたかと思い(何と言っても成歩堂の所有する暖房器は控えめにしか温めてくれない)エアコンの温度を確認してみても、適切以上のものではない。
 床は丁寧に拭いたものの、一度染みついた臭いは全く消えず残っていて部屋全体が不気味な薔薇の香りに包まれているのが原因かと思ってみたが、気分が悪くなる分でも体温が上昇する事はないだろう。
 成歩堂はニット帽を脱ぎ、それでハタハタと顔を扇いでみるが、じんわりと肌かえら汗が滲んでくる。

「…っ…?」

 ソファーに投げ出した両足の付け根が、こんもりと張っているのを発見して、熱の原因を思い当たる。冷静な脳味噌と、下肢に溜まる熱のギャップは、まるで其処から真っ二つに分断されてしまったかのようだ。
「どうな…っ…!」
 上半身を起こそうとして、擦れた部分から強烈に響く腰からの刺激に顔を顰める。熱だと思っていたそれは、背筋を駆け抜けた悪寒に似た震えを成歩堂に感じさせた。
 溜まってなどない。いや、そもそも多少溜まっていたいたぐらいで怖気が震うほどに性の衝動を感じた事などあるはずがない。だいたい、前兆がなさ過ぎる。


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